昭和51年5月10日 朝の御理解



御理解第二節「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてる(尽きる)ということがない。」

 昨日は終日という程にいろいろな難かしい問題をお取次させて頂いた。もちろん初めてお参りされる方達ばかりの難儀であります。第一医者に見放された、本人は知ってないけれども癌、痩せ細って体の自由も利かん人を導かれて、子供三人付き添われてみえた。
 また、これは人間関係で、親子で参ってみえました。一年半苦しまれたがとうとう警察問題にしてそれで、警察問題でも埒が明かんから合楽の金光様にお願いすれば、おかげを頂くという事で、その警察、その町の駐在所、いわゆる警察官の方を立会いに連れて参られた。もう話を聞きますと、もう信心の無い人が難儀というものは、もう一つも私共が見れば難儀でない事を難儀と思い込んでおるという事です。
 また経済問題に事件が絡んでというように、私はどんなにそういう方達にですね、御理解を説いてもです、もう耳に入りませんです。
 昨日はそれが続きましたからですね、本当に取次者冥利ということをいつも申しますけどね、本当によい取次ができたと。
 例えば初めて参って来ても、御理解を頂いて、「ははあそうですな」と言うて帰る人達。またおかげを頂いて、お礼に出てみえる。そのお礼のお取次をさせて頂く時に、取次者冥利を感ずる時ですけれども、その例えば言うて聞かせても、それが跳ね返ってくるようにして、ただ自分の難儀な事だけを主張するという、それがズーッと続いたから、もう自分の力の無い事に僻易とする一日でした。
 これがもし合楽でご信心を頂いとる、もし皆さんであるとするならば、もうそれこそ私が手を叩いて喜ぼうごとある事柄ばっかりなんです。
 もう本当に信心をさせて頂いて、なら今日の御理解などを、信心するなら、誰れでもお徳を受けられるという。
 信心をする、いうならばおかげを受ける、それから次に信心を受ける、それから信心のまことが現される、そこからお徳を受けるという段階ですかね、だからまだそういう信心のわけが分かる、神様を信ずる、疑わんですむ、体験が生まれてくる、いわゆる前提にあるのですから、もうそれこそ勇みに勇んで、そういう問題に取り組んでいけるということは有り難い事だと言えれる事ばっかりなんですけれども、信心がないばっかりに、「先生なるほどあなたのお話しを聞いてなるほどご無理ごもっともですけれどもそんなわけにはいかん」と言うのだから。
 もう私は最後には皆の場合思いました。これは私がもう一修行さして頂いて力を受けて、ただ合楽の金光様に参らせて頂いたら、わけは分からんけれども問題が解決したとか、病気が治ったとか、おかげ頂く以外にないな、ともう一段私がお徳を頂く以外はないなと。もうけっきょくそれ以外ないなと思いましたわけなんです。
 これは皆さんの場合でも同じ事です。「信心すればだれでも徳が受けられる」というのは簡単に此処を頂き過ごしまして、そして実際信心したけれども、お徳は受けられなかったというて、まあこの御理解、第二節がその。実証もなさずして、しまえていく信者さんがどれ程多いか分かりません。
 これが御神徳であろうと、これがいよいよあの世に持っていけるんだなあという喜び、しかもこれが子孫にまでも残るものかな、と思うたら有り難いというほどしのものを受けた人が本当にごく少いという事を思いますと、いかにお徳を受けられるチャンスに恵まれても、それをお徳にしない、力にしないかという事が分かります。
 その方達に私はいろいろお取次させて頂いたあるこれは経済の問題が絡んだ事件なんですけれども、事件の件という字は、にんべんに牛という字が書いてあるでしょう。そのにんベんが小さいのです。そして牛という字は大きいのです(件)こういう感じの字です。 ですからこれはもうめぐりのせいですけれど、これに人間が大きくなればです、それに釣り合う、めぐりの力が百あるならば、人間の力もです、百とそれに対等な力が大きくなったらです、そのめぐりが大きければ大きいだけお徳を受ける事になるのです、ね。
 難儀というものがです、初めて参って来た人が、あいつが悪いから、あいつが私にひっかけたから私が今難儀をしておるとこう言うのです。
 けど信心はそうではない。そういう難儀な思いをしなければならない元はこちらにあるんだと頂くんです。同時にこれは家のめぐりだ身のめぐりだと頂くんです。
 だからその牛が大きければ大きいだけ、このニンベンの方もそれだけ対等の力を受けるために信心修行があるのです。(合楽では牛のお知らせを家のメグリと説く)
 だからこのめぐりが大きければ大きいだけおかげも大きい、お徳も大きいおかげが受けられるというんですから、信心によっておかげを受けさせて頂こう。そこが信じられ、分かるようになったら、それをまこと真心で受けて、だれかれのせいではない。自分にその難儀の元があるんだと気づかせて貰うて精進して行く。そこから力が受けられる、実に有り難い事である。
 お徳を受けるということ、いわゆる難儀を大事にしなければおられない。めぐりを大切にせねばおられない。その間忍ぶにも忍べない事もあるが、その信心辛抱が身に徳を受けていくという事になるのです。
 信心によって自分の心がいよいよ豊かに大きく、美しゆう、いわゆる和賀心を目指して、まん丸な心の状態を頂いていこうというのが信心なんです。
 私は昨日お取次させて頂いて分からせて頂いた事は、信心は無くてもおかげはやってあると、しかもそのおかげは降るようにあっておるという事です。ただこちらの受けものが悪いからおかげにならんのだというみ教えがありますがら、確かにおかげは降るようにあっておるんです。
 咋日宮崎からお礼に出て来た方があります。稲垣さんの妹さんです。この頃のご大祭(四月十六日春季大祭)を頂いて、もうそれこそ御大祭の御比礼に浴して、有り難いもったいないで帰らせて頂いたら、お商売がもう本当に、ビックリするように、どんどん売り上げが伸びて、だんだん御大祭の感激も薄れてきて、だんだん心が淋しうなってきたら、こんどはおかげがガタッと落ちて、それでこの頃電話でお届けがあっておったが、とにかくお参りさせて頂こうというて、一昨日の晩に来て、昨日の朝参ってみえられた。
 とにかく宮崎から此処まで参って来た。合楽合楽と言うて参って来たんですから、もう昨日の御祈念を頂いて、御理解を頂いて、此処にお届けに見えた時には、もう言葉が出ぬくらいに感動しとられました。
 打ち向かうという事は素晴らしいですね。合楽はそういうものがあるんです。此処には感動させずにおかんというものがあるんです。
 昨日の御理解は大変難かしかったと思うんですけれども、その御理解が分かられたとは思えんけれども、その中の一言でも、ああ今日頂くのはこの事だったと言うて姉さんに話された、という事です。もうこれを一言頂いただけでも宮崎から参ってきた甲斐があったと、そういう例えば潤うた心がです、おかげを呼ぶのです。
 呼ぶのじゃない。おかげを受けとめるのです。頂く事が「肝」と頂く。月という字の横に干す、肝という字になります。月という字は人間氏子の事です。神様は太陽です。月はいかにも光があるように思うても、力があるように思うても、人間は何の力もないんだと。だから太陽の反射、太陽のお恵み、神のお恵みを受けてなければ太陽の反射で光を放っていくんだと。
 ですからお月様自体の光はない。人間そのものには力はないけれども、お恵みを頂く事によってです、それこそ昼をあざむくような月の夜の明るさというものがあるように、姿形は人間であるようだけれども、お徳を受けた人達がです、光り輝くばかりに見えるというのは、そういう太陽の光をまともに受けて反射している姿だ。
 人間生神様と言われるような人でも、なら生神様の光というものを自分自身から発することはできません。神様のおかげを頂いてからの事です。
 そこで、なら私共がお月様に例えるならばです、真ん丸な十五夜のお月様を目指すことが、和賀心を目指すことです。
 それが半月さんならまだよいけれども、三日月さんになり、時にはくれの闇になるから、心がパサパサとしてしまう。 乾いてしまう乾燥してしまうわけです。潤いがなくなってくるのです。
 どんなに神様のお恵みがあっても、それを照り返す光もない。いわゆるくれの闇であります。
 ですから乾燥してパサパサしておるところに、どういうおかげが、それこそ降る雨のようにあっておっても、信心の歓びの芽というか、花というか稔りというものがあろう、できろう筈がない。
 どうでも、だから私共が有り難いという心、信心を頂いとる者の有り難さというものが心の中にいつもジワジワと、いつも心の中に湧いてこにゃいけんです。
 おかげは今申しますように、降る雨のようにやってあるんですから、いうならおかげの種は降るように蒔かれてあるのですから、私共の心に受け止めれる、そして芽をキル、そしてそれが葉になり花になり稔りになるというおかげを頂かんならんのです。
 本当のおかげを頂く、お徳を頂く、力を頂くためにはいつも絶えず自分の心の中が、信心の喜びにひたっておれれる心の状態を願う、つくる以外ないです。
 信心を頂いておるという事は有り難いという心をもってしないとです、お徳を受けるチャンスに恵まれてもお徳をお徳としきらんのです、ね。
 お参りをする、おかげを頂く、それからだんだん信心を頂く事になってくる。信心を頂く事になってくると、こんどは信心の真を現す事になってくる。信心の真を現すことによってお徳が受けられる。だからそれまでの、だから過程です。
 私が昨日初めてお参りの方達の、大変なめいめいにとっては本当にノイローゼになろうようにあるというて、嘆かれる難儀。けれども問題はあなたが大きくさえなれば良いわじゃないですかと。
 豊かな大きな心になり、そりゃご無理ごもっともですけど、そんなには大きくはなれないとこういうのです。
 けど信心を、神様を信じ、めぐりを分かり、そして信心とは、真心の追求であり、和賀心の追求である事がわかってまいりますように、そういう事のために自分の心がいよいよ豊かに大きくなってゆくわけなんですけれども、信心がないとそれを難儀な問題、難儀な事だとして、いよいよ難儀が難儀を作っていくような状態しか生まれて来ない。
 だから信心が分かるという事は、そういう例えば難儀な様相というかね、そういう直面した時にです、いよいよ私が大きくなる以外にないとして、大きくしていく、私が大きくなる以外にない、私が研く以外にないとして、私が力を頂く以外にはないとして、いよいよ和賀心を目指していく、楽しい信心を身につける以外にはない。そこまでいった時に初めて、信心すれば誰でも徳を受けられるというのは、そういう信心だということ。
 ただお参りしとりますというだけの信心では一生たっても、あの世にも持ってゆかれ、この世にも残しておけるということにはなれないという事です。
 そしてそこに思い込みというかね、めぐりが大きければ大きい程、おかげも大きい、お徳も大きいという事なんです。
 だんだんおかげを頂きまして、そういう事が全然問題が問題でなくなってくる。大きく豊かな心になってくる。もうそこには難儀というものではない。ただおかげだというものしかない。
 神様がまあ、いつも絶えずこんなにしてまで大きくならせて下さるのだなあ、こんなにして研かして下さるんだなあと思うたら楽しくなってくる。
 私がお取次さして頂いて、本当によかとこ通りよるというて手を叩いて喜ばれるような感じだけれども・、信心のない人に私が手を叩いて喜んどったら腹かいて帰る。昨日その人間関係の問題で一年半も悩んで警察官の方を連れて来たという人はしまいには腹かいて立って帰って行きなさった。
 けれども信心が分かって、私が今申しましたような、神様がお徳を下さろうとする働きだと信じられたらです、、苦しい事は苦しいけれども親先主が手を叩いて喜びなさる筈だという事がです、おかげはそれこそ降る雨のようにあっておるんですから、いうなら雨というよりもおかげの種が蒔かれておるのです。
 ところがその心が乾き切っておる、パサパサしておる。これではどんなに種を蒔かれても芽をキル事はないでしょう。
 信心とは、だから信心の喜び、心が潤う。いつもジワジワと心の底から、信心を頂いている有り難さというものが心の底にある。そこへ限りなく蒔かれておる種が、喜びの種ですから、喜びの芽が出るのです。そして喜びの稔りが頂ける、それがお徳です。
 だから絶えず自分の心の中にです、いわばおシメリを打ったような、何を植えても、どんな種を播いても、その種が芽をキル心の状態をつくって行く。
 そこをそうと信じきれる時にです、いわゆる真木信司(この真木信司とゆうお知らせを頂かれた時、マキシマムとゆう語調で真本信司と頂かれた。マキシマム・MAXIMUM=極大の意。この真木信司のいき方にならせて頂くところから、極大、無限大のおかげが頂けれる)
 真木とは真心(合楽では木は気、心と理解される)それを信ずる、その信ずる心が一切のおかげを司るという事になっていくのです。
 結局だから信心とは、有り難うならせて頂く稽古だと言われるのもそういう訳なんです。心が信心の喜びでいっぱいになる。その宮崎の信者さんじゃないけれども、御大祭という、いわゆる有り難うして有り難うして、いわゆる有り難い有り難い一つの有り難いるつぼの中にひたらせて頂いたら、もう有り難うして有り難うしてという状態におかげが、思いもかけないおかげの進展になっている。
 ところがその有り難いものがいつの間にか無くなって乾いてきだしたら、また売り上げの方も落ちてきておる。
 さあそこで有り難いものを合楽に頂きにみえた。もうその時点で、もうとにかく此処で言葉になって出らないくらいな感動を受けておられる。合楽にはそういうものがある。
 それにはお参りしてからでもというか、一生懸命の一つの意欲をもってのお参り、信心でなからねばならないという事が分かります。
 同時に心の中にです、いつも円満を目指す、和賀心を目指す、その和賀心が円満であればある程、大きな丸を受ける事ができる。
 三日月なら三日月だけのこと、半月なら半月さんだけの光である。いよいよ和賀心を目指して貰い、いよいよ喜びの潤いを心に持たせて頂いて、降る程にあっておるおかげを受け止めてそれが芽をキル、それが花を結実のおかげになってくるような信心を身につけていかねばなりません。
 だからそこまで信心がわからんと、昨日私が信心のない方、初めての方達ばかりのお取次さして頂いて、もうヘトヘトになるもう僻易とする、本当に力のないのに自分が愛想が尽きるような思いがする。それは信心のない人達のお取次だからです。
 だから皆さん信心を頂いておりましてもです、そこんところを分かる、これが神様のお働き、これが神愛の現れ、これでお徳を受けてくれという神の声として頂けれるところまで行かねば、やっぱり取次者は骨が折れるという事になります。
 だから一つ本気で自分の心の中にいよいよ難儀の問題が起こってくればです、その難儀な問題と同じくらいに私が大きくならねばいけません。
 自分の心がです、乾いておってはなりません。いつも潤いを持たせて、それだけ例えば朝参りというものは、また教えを頂いて、その教えを今日一日の支えにする、というような生き方を身につけて行く事によって、いわゆる本当なもの、本格的なもの、おかげの受けものが、できてまいります。
 そして頂くところのおかげであって、初めて、お徳という事が言えるのです。力という事が言えるのです。その力が徳です。いうならばあの世まで、先の世まで持って行かれ、子孫までも残るというのはそういう信心です。
 ただおかげだけを頂いて、心に受け物なしに頂いたおかげは、あの世にも持って行かれないし、この世にも残せる事はありません。
 信心すればだれでもお徳は受けられるとおっしゃるのですから、一つだれでも受けられるお徳を頂く信心を今日は聞いて頂きました、どうぞ。